中国海警局海警船による中国密漁船の強行奪取とインドネシア領ナトゥナ海域

2016年3月20日未明、インドネシア海域ナトゥナ諸島沖にて、違法操業の疑いでインドネシア海洋水産省警備艇に拿捕された中国国籍の漁船が中国海警局の海警船によって奪還されるという事件が起こりました。同海域は、インドネシアの排他的経済水域(EEZ)と中国が主張する管轄地域「九段線」が重複するいわゆる「南シナ海問題」の最南端地区。ご存じの通り、現在中国は国際法に批准しないかたちでベトナムやフィリピンなど東南アジア諸国との対立を重ねながら南シナ海の実効支配地域を拡大させつつあります。もともと、インドネシア政府は「南シナ海問題」について中国とは対立関係が無い旨を公式発表し、同問題に対して中立の立場をとってきましたが、本件をきっかけにインドネシア政府の中国への対応がどう変化するかが注目されています。日本の各種メディアでも南シナ海における中国の強硬的な態度とインドネシア政府による抗議が淡々と紹介されましたが(産経共同読売日経)、ナトゥナ諸島周辺の海底には世界最大級の天然ガスが埋蔵されていると言われ、インドネシアにとっては地政学的にも極めて重要な地域です。以下、まずは当時の密漁船奪取事件の様子から確認していきたいと思います。

 

インドネシア海洋水産省警備艇による中国密漁船拿捕

menolak-minta-maaf-atas-aksi-coast-guard-rev3
密漁船とされる中国漁船、桂北漁10078

2016年3月19日、インドネシア・リアウ諸島州ナトゥナ海域(05 05,866’N. 109 07,046’E、下記「海洋水産省作成現場図」の1 )で、海洋水産省警備艇(100総トン級、船名:KP Hiu 11)が違法操業を行っていた中国船籍のトロール漁船(300総トン級、船名:Kway Fey「桂北漁」 10078)を発見、追跡を開始しました。警備艇は中国漁船に対し停止指示を出しましたが逃走を続け、警告発砲後もそれを無視してジグザグ走行で現場脱出を図りますが、最終的に警備艇の捜査官3名が中国漁船に乗り込み、乗組員8名を確保、船体を拿捕しました。8名の乗組員は警備艇へ移動、船体は陸での調査を続けるためナトゥナ諸島へ曳航されることとなります。場所はナトゥナ諸島沖(05 07,490’N. 109 11,830’E、下記「海洋水産省作成現場図」の2)の地点です。

 

中国海警局海警船による中国船再奪還

ini-penampakan-kapal-aparat-china-yang-terobos-laut-natuna
ナトゥナ海域に現われた中国海警局海警船

ところが、拿捕漁船の曳航中、中国海警局の海警船一隻(1,000総トン級以上)が同海域に現れインドネシア警備艇を追跡し始めます。警備艇からは海警船への連絡を試みましたが応答は無し。海警船は25ノットの速度で警備艇に接近、照明を警備艇に向け照射しながら、曳航中の中国漁船に向けて突進、そのまま中国漁船に追突しました(因みに、どうせなら中国船はインドネシア船に体当たりしてもらいたいという某読売新聞、嘘はダメですよ)。当時、中国漁船にはインドネシアの捜査官3名が乗船していましたが、海洋水産省の話によると海警船の衝突で中国漁船の船体が破損、中国船に乗船中のインドネシア側捜査官全員が警備艇へ帰還したとのことです。その後、中国海警船が中国漁船に接船。インドネシア警備艇は中国漁船から離れました。時刻は3月20日の午前1:45分、場所は(04 09,942’N. 108 34,824’E、下記「海洋水産省作成現場図」の3)の地点です。警備艇による現場監視は続きましたが、二隻目の中国海警船が現れたことによりインドネシア側は現場を放棄。最終的に外部監視に切り替えたとのことです。スシ海洋水産相は「インシデントは作りたくなかった。我々は友好国だ。当然、主権を守り抜きたかったが深刻となりうる摩擦は避けねばならなかった。死人が出れば状況は変わっていた」と無念を伝えていますが、拿捕船籍を曳航中の海洋水産省所属100総トン級警備艇一隻と、設備レベルも違う1,000総トン級以上の中国海警船二隻では実際勝負にならなかったのも正直なところでしょう。これまで東南アジアの笹船級伝統漁船を散々拿捕、撃沈処理し続けてきたインドネシア政府ですが、大型中国船(過去にも何度か逃走されています)や今回の様な予想外な近代兵器の登場となると勝手が違うようです。海洋水産省と国軍・警察の準備・連携不足、また、根本的な設備不足といった毎回課題にされている問題が今回も露呈することとなってしまいました。

因みに、新政権発足以来200隻近くの不法船を沈めまくり、外交も含め、外国船に強硬政策を敷いているとされる海洋水産省ですが、中国船の撃沈は実に前ユドヨノ政権時代の2009年に拿捕され長らく保管されていた旧型船たったの一隻です(これを産経新聞に言わせるとこんな感じになってしまいます。過激なネタ作りはいけません。詳細はこちら)。スシ大臣はこれまで中国船をどうしても沈められずに涙を呑んできました。

 

以下、現場の図面です。

natuna3
「海洋水産省作成現場図」1で追跡、2で拿捕、3で海警船に奪還
natsunachizu
赤の罫線が中国が主張する「九段線」、 青の罫線がインドネシアのEEZ

 

インドネシア政府の対応と中国政府の見解

さて、本件を受け、ルトノ外相は中国大使館代理公使(大使は中国に帰省中)を呼び出し、1. インドネシアの排他的経済水域(EEZ)における主権侵犯、2. EEZ上における法執行の妨害、3. インドネシア領海侵犯の3点について厳重抗議をしています。本件管轄省のトップであるスシ海洋水産相も「中国が強硬姿勢をとるなら、我々のナトゥナの正当な漁業権を説明し、国際海洋法裁判所へ訴えでてもよい」と述べています。また、南シナ海問題を持ち出し、「南シナ海に面する多数の国が同海域に問題を抱えている。我々は何年もこの問題解決のために努めてきた。先日の対応を受け、我々はこの問題に直接関係していない大国を招いて本件を活発に取り上げていきたい」と国際協力を仰ぐ旨を述べました。この他、中国に密漁船の引き渡しを要求しています。

※ 若干話は逸れますが、現在この中国密漁船奪取問題を外交的に直接担当している二大臣(海洋水産相、外相)は両名とも女性です。つよい!日本のおっさん政治家も見習ってほしいですね(笑

ところがこれに対する中国大使館代理公使の見解は「事件があった場所は中国の伝統的な漁業水域である。わが国の漁船は合法的な一般操業中にインドネシアの武装船に追い立てられた8人の乗組員の返還を要求する」とインドネシアへの対立姿勢を更に強調したものでした。スシ大臣も「国連海洋法条約のいかなる箇所にも”伝統漁場”なる定義は認められていない。国際的に認知されていない中国の一方的なモノ言いであり、彼らの主張は根拠も無く、明らかに誤っている」と中国サイドの見解を強く否定しています。そもそも海警船による密漁漁船の奪還地点は明らかに九段線の外ですし、千歩譲って操業&拿捕現場自体も九段線の外側に見えるんですが。

実は昨年の2015年11月に中国外務省の洪磊報道官が、インドネシアの排他的経済水域(EEZ)と中国が主張する「九段線」が重複する同地区について「ナトゥナ諸島の主権はインドネシアに属しており、中国は異議を示したことはない」、「中国は当事国同士が史実の尊重という基礎のもと、国際法に基づき、対話を通じて平和的に解決しようと努力~」と定例会見で述べたことがあります。今回の密漁船奪取と大使館による「中国の伝統的漁場」発言は、先の外務省発表と言動を異にしており、また、中国本土から遥か離れた南シナ海南端のインドネシア海域(上記地図参照)に侵犯して漁を行う300総トン級漁船たった1隻に対して、中国海警局船2隻が迅速に護衛出来た状況も政治的に不自然な気がします。南シナ海問題が緊迫する中、昨年からインドネシア国軍はナトゥナ諸島周辺の大幅な軍備増強を進めています。

結果的に「伝統漁場で通常操業を行っていた中国船が、武装したインドネシア船舶によって不当に拘束を受けた」と中国サイドが発信することで、今後の足掛かりとして、一方的に南シナ海のナトゥナ諸島に対する潜在的な中国の権利を宣言したようにも見えます。国際法が有効な海域で「独自の伝統」を持ち出し漁業権の正当性を主張するのははちゃめちゃです。中国は、今回の「伝統的に中国の漁場」発言の既成事実を以て、無理やり外交カードを一枚作ってしまいました。事を大きくしたくないインドネシア政府には厄介なカードが、インドネシアへの投資を進めたい中国本土の投資家らにとっても横槍的なジョーカーが配られたかたちとなってしまいました。

 

ナトゥナ諸島海域はインドネシアが誇る世界最大級のガス田地帯

漁船拿捕に端を発した本件、たしかにナトゥナ諸島周辺は優良な漁場としても有名ですが、それよりなにより重要なのは同地域に眠る豊富な化石燃料です。ナトゥナの天然ガスの埋蔵量は46兆立方フィートにも及ぶとされ、インドネシアの石油公社プルタミナによると、ナトゥナはアジア最大規模のガス田とのことです。また、現インドネシア政府のエネルギー政策は石油ではなく天然ガスと石炭の生産を重視しており、まさにナトゥナはインドネシアの富の源泉であるという訳です。ここにインドネシアの排他的経済水域(EEZ)と中国が主張する管轄地域「九段線」が重複している構図は他の南シナ海問題と同様で、インドネシアは潜在的に中国からの脅威をうけており、過去(2009年、2010年、2013年)にも同地区に現われた中国漁船を巡り問題化しています。

 

ナトゥナは日本の権益にも絡む

indns_img02
INPEXの管轄する南ナトゥナ海B鉱区

ナトゥナにはINPEX(国際石油開発帝石株式会社)をはじめとする日本企業が原油・天然ガスプロジェクトに参加し権益を取得しています。また、同海域は西からマラッカ海峡を抜けた先にあり、更に南シナ海から東シナ海、そして日本へ抜けるシーレーンのハブ的海域として地政学的にも重要な地域です。

インドネシア海軍は2015年にも、南シナ海、特にナトゥナを想定した合同演習を米海軍と行うなど、インドネシア政府の経済政策、特に投資誘致政策とはまた別のベクトルで、対中を意識した防衛政策が取られています。そういえば同じく去年2015年12月に元国会議長(訪日帰国後早々、汚職スキャンダルで辞任)一団が訪日した際に、救難飛行艇US2などの軍備調達や支援についての協定が日本と持たれたとされていますが、BBCによるとこれらの軍事調達品の多くがナトゥナの軍事施設に運ばれるそうです。ナトゥナの軍備増強は、元国軍出身で強硬派として知られるリャミザード国防相が推し進めるインドネシアの国策です。とはいっても、今回、中国海警船がINPEX管轄の南ナトゥナ海B鉱区の目と鼻の先まで何の障害もなく往復している事実から、現状のナトゥナ近海の警備レベルも見て取れるかと思います。

 

海洋水産省管轄を超えた事件

ということで、本件に関しては今まで、インドネシアの漁場を守るために、諸外国の笹船を拿捕、撃沈処理し続けてきた海洋水産省主導の不法操業船制裁案件とは趣を異にしています。国家エネルギー問題、国境問題、インドネシア曰くの海洋国家構想(即ちシーレーンに対する主導権の確保と自国経済寄与)、これら国家主権がもろに関わってくる、さらに南シナ海の権益に関係する中国、アメリカ、東南アジア諸国、そして我が国日本との外交問題に複雑に絡んでくる問題に発展する可能性があります。経済成長率の不振にあえぐインドネシアとしては、中国からの投資がほしい。しかし、国策の要となるナトゥナ諸島周辺の主権は確固に築く必要がある。こういうジレンマに立たされながら、優位な形でこの事件を外交カードとして交渉を行う必要があります。それは経済成長が停滞に向かいエネルギー問題を抱える中国側も同様なのかもしれません。現状、中国に先制を食らわされ、拘束中の中国人乗組員8名というボールを受け取った側にあるインドネシア。まずはどういったボールを返すのか。今後の外交政策が見物です。

 

 

参考:

拿捕から再奪還までの時系列1 liputan6.com
拿捕から再奪還までの時系列2 detik.com
拿捕から再奪還までの時系列3 merdeka.com
スシ大臣怒りの発言1 merdeka.com
スシ大臣怒りの発言2 liputan6.com
INPEX インドネシアでの事業案内