今から17年前の1998年5月12日、ジャカルタのトリサクティ大学では、 時の大統領スハルトの退陣を要求する学生デモが行われていました。 ここで治安当局の何者かから周到な実弾による発砲があり、デモに参加していた大学生4名が射殺されました。国軍司令官は警察治安部隊に実弾の装備はない旨、発砲命令の無い旨を発表して警察の関与を否定しましたが、まるでこの事件がトリガーとして仕組まれたように、直後からジャカルタ大暴動が発生、中華系インドネシア人を中心に千数百名の命が犠牲となりました。首謀者は現在に至るまで曖昧にされたままです。これ以降、インドネシアはスハルト政権の倒壊へ続く、激動の時代に突入します。
さて、先日、BBC IndonesiaのFacebookアカウントから「1998年5月:あなたはどこに?」という投稿が投げかけられ、多くのインドネシア人から当時の様子についてのコメントが寄せられました。過去の暗い部分をわざわざ平和な今に蒸し返さなくても、というのはあるかもしれませんが、今回は、このBBC IndonesiaのFacebookに投稿された様々なインドネシア人の「1998年5月」の一部を日本語で紹介しようと思います。少し長いですがこれでもほんのほんの一部です。
当時私はバリ島にいました。バリ島はジャカルタのような暴動とは無縁でしたが、外国人ツアー観光客が激減し、その代りジャワ島から中華系インドネシア人が避難してきました。又、インドネシア人の友人にお前がインドネシア語を使うとインドネシアの華人と間違われる可能性があるから出来ればインドネシア語は使うな、使うなら注意しろとアドバイスをされたことを覚えています。そんなことより、ネットで検索すれば当時ジャカルタに滞在し凄まじい経験をされた日本の方々の文章が今でも拾えます。
あれから17年が過ぎました。当時のことを知らないインドネシア人や日本人らが増える中、インドネシアの人々は今も明るい笑顔を見せながら、そして、それでも過去の事件は現在のインドネシアの一部を成しています。
当時の状況やインドネシア人の考え方、そしてインドネシアの現在を確認するために、以下の文章を残します。インドネシアの平和を願って。 順不同。
私のインドネシア 1998年5月暴動
- パレンバンでは、2日2晩、市場にある全店舗が、誰が所有していようが一つの例外もなく、無理やり鍵を開けられました。そして、手で持っていける商品は強奪に遭い、もし持てない場合、放火です。3日目でようやく軍隊が治安維持に入りましたが、彼らも基本的人権問題に絡んでか、実際何もできませんでした。
- 確実に思い起こされるのは一つ。私の通っていた学校が焼けました。どうして学校が焼かれる必要があるのかはわかりませんが、学校の所有者がマイノリティだったからとでも言うのでしょうか。子供たちが成長する場である学校までも犠牲になるなんて本当に心が痛みます。このようなことが二度と起らないことを望みます。
- その頃、私はソロで学生をしていましたが、異常な暴動、火災が至る所で起こり、各住宅は放火に合わないよう「ここはプリブミ(先住民)が所有しています」という印を掲げなければなりませんでした。私は今、プカンバルに住んでいますが、二度と1998年暴動の様なことが起らないように祈っています。
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新米記者として、そして、インドネシア大学の中退者として私はサレンバ(インドネシア大学キャンパス)を訪れました。演説が始まって間もなく、私のポケベルに三つのメッセージが入りました。一つは会社から、一つは夫から、そしてもう一つは両親からです。メッセージの内容は全て同じでした。「すぐに帰れ。グヌンサリにある林紹良(サリムグループ総裁スドノ・サリム)の家が焼かれる。(私たちはインドフードのボスやスハルトの取り巻き政商らの住居とそう遠くないクマヨランに住んでいたのです)」。しかし、バスもミクロレット(ミニバス)も来ません。インドネシア大学内キャンパスはデモ参加者でいっぱいでしたが、サレンバ通りはまるでゴーストタウンでした。私は歩いて帰ることにしました。ラッキーなことに、心優しい方がアンカサ通りまでバイクで送ってくれました。無事家にたどり着くと、生まれたばかりの私の愛しい息子は夫に抱かれて泣いていました。私たちは重要書類、有り合わせの衣類をトラベルバックに詰め、火災がここまで来たらすぐに脱出できるよう準備しました。 幸い、これらの準備は無用に終わりました。
- 1998年5月20日、私は10歳でした。当時私はどうしてスハルト大統領が辞めてしまうのかと悲しくて泣いていたそうです。しかし、数年後、tempoなどでニュースを読み、テレビを見て私も理解するようになりました。それから私はスハルトを憎むようになりました。その後、ゆっくりですが確実に、私の心はこれらのメディアが言っている事を拒否し始めました。そして、あれやこれやと考えるうちにわかりました。現実としてスハルト大統領の時代よりよい時代を結局今まで感じたことがないということを。今、私はスハルト大統領の国民になったことがあることを誇りに思っています。あの時代がとても懐かしい。そして私があの方を憎んだことがある事実に対し謝罪します。
- 覚えている事といえば……何もかもが高くなってしまって、私も略奪に参加してしまいましたよ。食えないので仕方がない。ははは。
- 私と母はコパジャ(市バス)に乗っていて、そこから、グロゴル高速の下で大学生達がデモを行っているのが見えました。催涙ガスで息が苦しかったです。そして、私達は、高架橋からトリサクティの学生達に向けて銃口が向けられていたのを見ました。母親は悲鳴を上げ泣き叫びました。二人の妹が大学生なのです。
- あの時、私はチカランにいましたが、叔母さんから、ブカシは今略奪や放火、モノを強奪して逃げる人々でいっぱいで悲惨な状況なので、帰って来てはいけないと言われました。その晩はチカランの友人宅に泊めてもらいました。翌日何も知らずにブカシに帰った私は、思わず泣いてしまいました。町の商店は焼かれ、銃を持った軍人や戦車が商店街の治安に当たっていました。町は静まり返りまだ煙が立っており、ゴーストタウンのようでした。おぞましい体験でした。二度とこのようなことが行らないよう祈ります。平和なインドネシアのため容易く扇動されてはだめ。同じ国民に対する憎悪を持ってはだめ。
- 当時私には生まれたばかりの赤ん坊がいました。夫はグロドックプラザで略奪から店を守っており3日間、家に戻っていませんでした。そこでゴム弾に被弾もしました。略奪とは本当に残酷なものです。あの時のことを思い出すと、どうしてインドネシア人はあんなにもアナーキーになってしまったのかと、鳥肌が立ちます。私も生まれたばかりの赤ん坊と泣きました。だって、もし店を守っていた夫が暴徒と戦い死んでしまったら、そんな悲しいことはないではないですか。しかし、神のご加護の元、夫は命を繋いで帰ってきました。あの時のことを思い出すと、心が痛みます。
- バリ島では何も起こりませんでした。我々は初めて中国人がこの地に来た時から常に調和を取ってきました。バリの王は中国人を娶りもしました。どうしてこういうことが起るのか。国民は先祖の教え、カルマの罪を忘れてしまったのでしょう。
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私は当時中学2年生でした。早朝です。私は寝ていましたが母親が「暴動だ」と叫びながら私を起こしました。「暴動」。生まれて初めて聞いた言葉でした。私は屋根に上ってみました。住まいはガジャマダ地区です。前後左右から煙が上がっていました。暴徒によってそこらじゅうに火がつけられたみたいです。2~3日後、父親と状況を確認するためガジャマダ/ハヤム・ウルックへ歩いて行きました。戦車の通った後が至る所にあり、ゴム弾の薬莢がそこらじゅうに散らばっていました。「プリブミ(先住民)のもの」「ハジ(メッカ巡礼を行った者)のもの」といった殴り書きがたくさんの店や壁にされていました。ここで私はようやく気付いたのです。プリブミはここまで中国人を嫌っていたのかと。 結果、私は現在、カナダ在住です。私は人種差別主義者ではありませんが、私の周りの人間が単に私の目が細いからというだけのことで私を殺そうとすること、これはつらかったです、ショックでした、生みの親に受け入れられなかった様な気持ちでした。私はインドネシアで育ち、インドネシア料理を食べ、中国語も話せませんし、同じ赤い血が流れています。植民時代の負の遺産である人種差別精神が今まで護られてきたことに納得がいきません。愚痴はこれで終わらせて頂きます。
- 私はあの時のことはいつも覚えています。なぜなら私の誕生日は5月12日だからです。私は外で誕生日を祝いたかったんです。でもだめでした。外はどこも騒ぎばかり。家は鍵を掛けられ外出禁止。当時は人種差別がひどかったのでそれが不安でした。私はたまたま肌の色が白かったので、中国人と言われるのが怖かった。
- 1998年5月、私はまだ母親のお腹の中でした。
- 当時、私は17歳になったばかりで、初めてジャカルタに出てきました。ナマズの唐揚げ屋のボスのことろへ他の4人とタクシーで向かっていたのですが、群集がタクシーを止め、プリブミ(先住民)かそうでないかを聞いてきました。私はジャワ出身だと答え、彼らは、そうかOK、行ってよしと道を開けました。行く道、石や木材を持った群衆とも遭遇しました。
- 私が覚えているのは学校が休みになったこと。パパとおじさんが山刀を買ってきたこと。ママはスーパーに忙しそうに買い物に行っていた。私の家には地下室があって、国軍と警察機動隊に守られていました。私たちが買い物に出かけると、突然ジルバブをしたおばさん達が、中国人だ中国人だと私を指さして言ってきました。
- 私はタムリンの会社で仕事をしていました。暴動でチェンカレンに帰れなくなりホテルで3泊しました。帰り道一帯で焼かれた車、放火された建物、あちこちでの略奪の後、まるで戦争が起こった後のようでした。ずっと続いた恐怖の中、神様、私の家族をお守り頂きありがとうございました。
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私はクバヨランラマ通りのジャワポストで勤めていました。私は机でうたた寝をしていたんですが同僚が隣のアカシアスーパーに火がつけられ略奪が始まったと私を起こしました。短髪の男性数名がトラックから降りてきて、放火前にスーパーにガソリンを掛けました。私は屋上に出て、SLIPI市場が燃えているのも確認しました。私は会社を出てグロドック方面へ向かう事に決めました。行く道に警察の姿はありませんでした。市民は祭り状態。ある友人は、これはスハルト大統領の誕生祝だと言いました。トリサクティ大学のキャンパスを経由すると、ガソリンスタンドに火を付けるかどうかで大衆が市民と揉めていました。ジュンバタンティガ方面へ進むと、乗用車が燃やされており、その隣には、性器を竹で刺された女性の死体がありました。プルニアガアアン市場方面へ向かうと、数十名の短髪の男を乗せたトラックが市場にガソリンを掛けていました。グロドックでは多くの人々が電化製品を持ち逃げしていました。この暴動祭りは誰が仕掛けたか明らかにされておらず、これを解明することもなくなりました。
- 統一試験が終わって、公共バスに乗って家に帰るところでしたが大学生達がデモでバスを使っているらしく、まだ夕方にもなっていないのに無理やりタクシーで帰ったことを覚えています。生まれて初めてのタクシーでした。帰宅するとそのまま3週間家を出ることが出来ませんでした。緊張感は途絶えず、それは大人の顔を見ていてよくわかりました。しかし子供は聞くことも出来ません。外出どころがベランダに出ること、窓に近づくことも親に禁止されました。ラジオからは悲報ばかりが流れ、テレビは暴動のニュースばかり。初めて外出が許された日、ジャカルタは死の街と化していました。悪臭が至る所で鼻に突きました。多くの犠牲者は発見されず、暴動の跡地にいるのです。私は忘れません。詳細に至るまでが鮮明に記憶に残っています。それどころが思い出すたびに胸焼けがします。このおぞましさは未だに暗く私を包み込みます。信じられないですが、これは実際に起こったことなのです。
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当時私はチャワンで突然銃声を聞き、橋の下に身を隠しました。私は大衆を乗せたたくさんのトラックを見ました。状況は緊迫しており、私が待っていたブカシ行のバスなど来はしませんでした。私は注意してブカシ方面へのトラックを待ちましたが、間もなく私が見たのは、何かわめいている大衆に殴られている警官でした。と、そのうちブカシ方面に向かうコンテナトラックが通りかかり、私は何も言わずにそれに飛び乗りました。チカンペック高速は閑散としていて、トラックだけが勇敢に走っていました。家に着くと私はすぐにラジオ・ソノラを聞きました。ニュースではインドネシアで改革(Reformasi)が起っているとの事でした。残念ながら、当時私の家族はテレビを持ち合わせていませんでした。あの事件から現在に至るまで、私は無念な気持ちが拭い去れません。なぜなら、あれほどの犠牲者を出したあれほど大きな事件であったにも関わらず、この国は、何も得られなかったからです。それどころか、とめどない貧困の中、学校を辞めなければならない多くの子供達の犠牲の上に、新たな種類の汚職者達が生まれました。糞の役にも立たない改革(Reformasi Tahi kucing)、どうしてあの時我々は革命(Revolusi)を起こせなかったのでしょう。あの事件は結局、スハルトの選択肢から外れた人間達が画策しただけのことでした。彼らはスハルトの駒達と入れ替わり権力に着いた後ほどなく、汚職撲滅委員会(KPK)から犯罪を追求され、結局、国家予算の略奪者、汚職者達であったという事実がばれたのです。
- ジャカルタで起ったあの恐怖は忘れられません。私は仕事へ出かけようとしていましたが、外が何やら騒がしく叫び声が聞こえてきて出るのに少し躊躇しました(私の家はモールと市場の裏にあるのです)。そして、正門を開け家を出た瞬間、銃を担いだ兵士に部屋へ戻るように怒鳴られました。その声で更に怖気づいてしまい体が動かなくなってしまいました。そして、そんな私の目の前には、テレビやコンピュータその他諸々をスーパーのカゴ一杯に詰めて逃亡する人々や、燃える商店、そこら中から立ち上がる煙が現れたのです。兵士は再度私を怒鳴りつけ、銃で壁を叩きつけました。私はふと正気に戻り、足を震わせながら家の中に戻り、泣きながら外の状況を家の中で話しました。本当に恐ろしい出来事でした。それどころか、夕方テレビを見るとこの暴動はジャカルタだけで起ったものではありませんでした。二度とこのようなことが起らないように願います。二度と思い出したくありません。
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1998年5月、私は東ジャカルタ、チブブールに住んでいました。当時まだ小学校1年生。家族は家の壁に穴を開け脱出する準備をしていましたが、それが現実となってしまいました。当日、家族全員で夕食を食べていましたが、外から扉を強くドンドン叩く音がしました。私達は例の穴を潜り抜け、町内会会長の家へ避難しました。とても怖かった。今でもあの時のパニック状態が鮮明に思い出されます。戦場のような生活、両親は警戒を怠らず夜も眠れず、どうして中国が悪者になるの。インドネシアに対してどんな過ちを犯したっていうの。華人は商いでお金を作っただけで強盗で得たものではない。どうしてプリブミ(先住民)は華人の勤勉さに嫉妬するの。どうして華人はよそ者と言われるの。華人もインドネシアの独立のため共に戦いました。インドネシアの王国時代から我々はもうここにいるのです。新秩序体制(スハルト政権時)、中華系は共産主義と言われ憎悪の対象とされました。おかしな話です。我々華人は政に関わろうとちょっかいを出しているのではなく家族のために働いているだけです。新秩序体制はあまりに哀しい時代でした。中華系にとっての地獄でした。人種差別はどこでもなされ、人種差別のない世界を尊んだスカルノとはあまりに遠かった。中華民族もインドネシアのために多くの重要な役割を果たしました。新報という中国系新聞は、インドネシア独立のニュースを全インドネシアに対して宣誓しました。カリマンタンの国民軍の多くは中国人兵でした。スカルノ時代の大臣、将校… どうして今も華人が敵対視されるのでしょうか。それは単に中華系の成功に対する嫉妬心からだけなのでしょうか。
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当時私はスマランにいました。心の中でこれだけは言えます。これほどに人々が中国人を嫌うほど、彼らが何をしたというのでしょうか。曰く、奴らは金持ちだ、曰く、奴らは生意気だ、曰く奴らは先住者ではない、その他あらゆる理由の数々。言っておきますが、私のお手伝いさんは中国人です。私は彼女から物を略奪しなければいけませんか。私には小学校から高校時代にかけて、中華系イスラム教徒の親友がいました。当時私は貧しかったのですが、彼らは親から貰った小遣いの半分を常に私に分けてくれました。彼らは生意気ですか。彼らがインドネシアの先住民族ではないとしても、この国で生まれた彼をどこに追いやろうというのですか。彼らの故郷(Tanah Tumpah Darah)はインドネシアです。我々は何のために「青年の誓い」を持っているのです。それでもまだ人種、民族を考えるのなら、そして、他宗教や別グループを憎悪するというのなら、我々は何のためにパンチャシラを持っているのでしょう。我々は一つ、INDONESIAです。二度と同じ過ちが繰り返されないことを祈ります。
※コメントの選択に際し、民族・宗教・主義に対するあからさまな主張は出来るだけ省いています。尚、上記文章は、Facebook BBC Indonesiaに上げられたコメントを直訳したものであり、全てが事実という訳ではありません。最後に、本件を語りたくとも語れない犠牲者全ての方々に対し、哀悼の意を表します。