インドネシアで麻薬密輸犯として逮捕され、死刑宣告を受けたフィリピン人女性メリー・ジェーンについて、 複数連載で紹介する。
フィリピンの貧困層に生まれ
メリー・ジェーンは1985年1月10日、フィリピン・ヌエバエシハ州の貧しい家庭に生まれた。 両親は移動露店の飲物売りや中古品の回収で生計を立てていた。彼女は5人姉妹の末っ子で、3人の姉は中卒又は高卒、兄は全く学校に通わなかった。メリー自身も中学1年で学業を断念している。
2000年、メリーは16歳の若さで結婚し2人の子供を授かった。しかし、彼女の夫は働こうとせず、酒と博打に明け暮れた。それが原因で二度ほど刑務所にも入っている。結局、彼とは長く続かず離婚。彼女は若い頃から既に家族を養う立場にあった。様々な仕事をこなしたと言う。アイスクリームや揚げバナナ、バロット(孵化直前のアヒルのゆで卵)などを売り歩いた。しかし生活は相変わらず厳しかった。
2009年、メリーは家政婦としてドバイへ出稼ぎに出る。契約期間は2年。ところが、雇用者とその使用人に強姦されかけ、彼女は10ヵ月足らずでドバイを後にした。ドバイでのトラウマは彼女を無口にした。
悪夢の契機
2009年12月末日、メリーはフィリピンへ帰国した。お金がない。子供達も学校に通い始めた。働かねば。そして、2014年4月、元夫の負の連鎖が彼女の運命を更に大きく変えていくこととなる。メリーは、元夫の友人マリア・クリスティナ・セルジオに、マレーシアで家政婦の仕事があるので働いてみないかと誘われた。
彼女はマレーシア行を決心する。マレーシアへの交通費がない彼女は、バイクと携帯電話をクリスティナへ差し出した。しかし、これらの合計はたった7,000ペソ(約1,8000円)とのことであった。チケット代に満たない。しかし、クリスティナは、交通費の残額はメリーの給与から後日天引きするので問題ないと言ってくれた。メリーはクリスティナに礼を言い、そして神に感謝し、4月22日、クリスティナと共に早くもクアラルンプールへ飛び立った。労働ビザはない。観光目的での入国だ。
マレーシアで彼女はクリスティナとホテルに同伴伯することになる。クリスティナが言うには、雇用主が偶然海外に出張に出ているとのことであった。メリーとクリスティナはクアラルンプールのサン・イン・ラグーンホテルで3泊した。
この間、二人は常に一緒で、食事やショッピングを楽しんだ。クリスティナはメリーに衣類を買ってくれた。というのはメリーは今回の出国時に、多くの着替えの持ち込みを禁じられていたからだ。買い与えられた衣類は中古であった。
2010年4月24日、沢山の衣類等を買ってもらったがメリーのリュックにはとても収まらない。 「こんなに入る鞄は持っていない。荷物はどうしたらいい?」彼女はそうクリスティナに質問した。クリスティナは「大丈夫。 私の友人に会いに行こう。彼に鞄を買ってもらうよう頼むから」と答えた。
後日彼女の友人から電話があり、彼の兄弟がとある駐車場で待っているとの事だった。メリーとクリスティナは、白い車でやってきたその兄弟2名と駐車場で会った。二人とも黒い肌をしていた。そのうち一人が「君がメリーか。兄弟から聞いたよ。これがカバン、買ってきたよ」そう言った。メリーは謝意を述べた。その他、クリスティナと彼女の友人の兄弟達は何か話をしていたが、彼女には何のことかよくわからなった。クリスティナと彼らは常に英語で話をしていた。メリーはまともに英語が話せない。
鞄はホテルに戻った後、クリスティナからメリーに与えられた。スーツケース。少し重い。中を見てみたが何も入っていない。ジッパーも全部開けてみた。そして、メリーは彼女に「この鞄重いね。なんでだろう?」と尋ねた。クリスティナは「新しいスーツケースっていうのはそういうものよ」と答えた。メリーにとって初めての”車輪付バッグ”である。特に引っかかることもなかった。
メリーは買ってもらった衣類をスーツケースに詰め始めた。荷造りがちょうど終わった頃、クリスティナはメリーに茶色の封筒を渡した。中を見てみると500米ドルとエアアジアの航空券が入っている。そしてクリスティナはメリーにこう言った。「一週間、インドネシアで休暇してちょうだい。そこで私の友人とも会ってほしいの。それが終わったらマレーシアでお仕事のスタートよ」
断る理由もなく拒否する権利もない彼女は、インドネシア行を承諾した。インドネシアから戻れば仕事だ、私には子供がいる、働かないと!彼女が考えていたのはそんなことだった。クリスティナからは以下の注文があった。空港に着き次第、すぐにSIMカードを買うこと、空港最寄りのホテルを探す事、そしてホテルに到着後、午前8:30に彼女の友人に連絡すること。スーツケースについての話はなかった。2010年4月25日午前3:00、彼女はマレーシア、クアラルンプール空港を飛び立った。
逮捕
2010年4月25日、メリー・ジェーンはジョグジャカルタ・アジスチプト国際空港で逮捕された。彼女のスーツケースからはヘロイン2.6kgが見つかった。
空港に到着した彼女は、荷物をX線に通した。すると、係員の一人がメリーに荷物を再度チェックさせてくれないかと言ってきた。衣類や私物全てがスーツケースから出され、再度スーツケースはX線を通る。その後、メリーは事務所に行くよう言われ、そこで係員は「もう一度鞄の中身をチェックさせてほしい」と彼女に言った。メリーはOK、どうぞと答えたが、彼は鞄の中を見ずに、「鞄を切って開封してもよいか」と聞いてきた。メリーはなぜ鞄を切る必要があるのか問うたが、彼はチェックしたいとただ言うだけである。メリーにはやましいところもない。「OK、鞄を切ってもいいわ」。
メリーのスーツケースの背面から出てきたのは黒のプラスチックに封入されたアルミホイルだった。メリーは係員に、何か問題があるのか尋ねたが彼は何も答えない。そして彼は静かに言った。少し別の場所で話をする必要がある。
メリーはネガティブなことは考えていなかった。ところが別室でアルミホイルを開封したところ、中からライトブラウンの粉末が出てきた。彼らはその粉末を調べた。粉末は固体になった。そして彼はメリーに「君はこれを知っているか」と問うた。メリーは何かわからないと答えたが、彼は笑いながら答えた「ヘロインの一種だ」。 神よ。メリーは硬直した。言葉にならない。泣いた。そして泣いた。終わった。彼女はインドネシアでの麻薬密輸は極刑だと知っていた。
死刑判決
彼女はインドネシアの法に従い取り調べを受け、異国で一人、裁判を受けねばならなくなった。当然だが彼女はインドネシア語が出来ない。いや、それ以前に英語もまともに喋れない。そんな彼女の取り調べや裁判用に検察側が通訳を用意した。英語を勉強中の地元の大学生が彼女の通訳。司法の知識もなく通訳のプロでもなくタカログ語を理解しない一般学生が、タカログ語しか話せない彼女に宛がわれた。インドネシアでは麻薬犯罪は極刑に値する。インドネシアの司法は一人の生死のジャッジを、これレベルで取扱い、そういう姿勢でのぞんだ。 一連の手続きの中、彼女は自分の置かれた境遇や取り調べ内容をよく理解しないまま、辛うじて犯行を認めよという警察や通訳の要求だけは拒み続けた。
2010年10月11日、スレマン地方裁判所で第一回公判が行われメリー・ジェーン・フィエスタ・ヴェローソに死刑判決が下された。2011年2月10日、フィリピン政府の支援を受け、弁護団はジョグジャカルタ高等裁判所への控訴を行うが棄却。2011年には最高裁判所への上告を行うがこれも同様棄却、そして新たな政権を迎え民主主義の祭典に湧くインドネシアで、メリーは最後の望みを賭け、新大統領ジョコ・ウィドドへ恩赦の請願を行うが大統領決定No 31/G 2014を通じ、この恩赦請願も拒否された。
2015年1月16日、彼女の弁護士は、英語を解せないメリーに英語を学ぶ大学生を通訳に付けた本判決は無効であると再度、最高裁判所への上告を行った。しかし3月25日、最高裁判所は上告を正式に棄却、メリーは、後日予定されていた外国人麻薬死刑囚9名の内の一人となった。死刑が確定したのだ。
※ 尚、本件は現在も司法手続き中であり、原則下記のソース他を参考に記事を作成しておりますが、彼女の冤罪を訴える記事ではなく、飽くまで参考資料の一つと位置付けて掲載しています。 又、本記事内容に対する責任は当方では一切負いません。
参考:
http://www.merdeka.com/peristiwa/kisah-hidup-mary-jane-si-miskin-yang-lolos-dari-eksekusi-mati.html
http://www.rappler.com/nation/91026-mary-jane-veloso-narrative
画像:
http://indonesia.ucanews.com/2015/03/23/keluarga-masih-menanti-terpidana-mati-mery-jane-kembali-ke-rumah/
http://www.merdeka.com/peristiwa/ini-alasan-jokowi-minta-eksekusi-mati-mary-jane-ditunda.html
http://www.merdeka.com/peristiwa/ada-fakta-baru-mungkinkah-mary-jane-lolos-dari-hukuman-mati.html